任意の線型空間に対して次元が定義できる
先日,知人たちの間で,任意の線型空間に次元が定義できるのかと云ふことが議論になつてゐた.理工系の学生が学部1年時の線型代数の講義で使ふ教科書の1つに,斎藤正彦『線型代数入門』がある.これには次のやうに書かれてゐる.
今後,われわれは有限次元の線型空間のみ扱う.
ところで,この書籍には有限次元の定義として,線型空間 $ V $ から有限個の(線型独立な)ヴェクタを選べば,そのヴェクタたちの線型結合で $ V $ のいかなるヴェクタも表せるやうな線型空間と定義されてをり,さうではないやうな線型空間を無限次元と定義してゐる.基底の定義はこの先に述べられてゐるため,任意の線型空間(有限次元ではない線型空間)には基底を定義してゐる訳ではなく,基底を構築するヴェクタの本数(無限次元の場合は基底の濃度)として定義される次元も定義されてゐないことに注意して欲しい.
この書籍は恐らく教養課程の線型代数の講義で用ゐる教科書としては最もレヴルが高いものの1つであるが,では何故有限次元ではない線型空間に次元を定義してゐないのであらうか.実は,無限次元の線型空間に必ず基底が存在するといふことは,選択公理と呼ばれる公理を仮定しなければ証明できないからである.理工系の学生の多くは数学科以外の学部へ進むであらうから,ここまで数学的に高度な議論を展開するよりも,工学的意義が大きい固有値や疑似逆行列などの議論を深めた方が良いといふ判断であらう.
ちなみに,選択公理(と同値な命題である Zorn の補題)を仮定すると意外と簡単に証明できてしまふ.選択公理から Zorn の補題を導くのは大変なので,興味がある方は松坂和夫『集合・位相入門』などを参考にして欲しい.
まずは基底の定義を復習しておく.
Definition 0. 基底
体 $ F $ 上の線型空間 $ V $ に対して,その部分集合 $ B \subset V $ が基底であるとは,次を満たすこと:
- $ B $ からどのやうに有限個のヴェクタを選ばうとも,それらのヴェクタは線型独立である(無限集合が線型独立であるとは,この条件を満たすことをいふ).
- 任意の $ x \in V $ に対して,ある $ n \in \mathbb{N} $ が存在し,上手く $ a_1, \dots, a_n \in F $ と $ b_1, \dots, b_n \in B $ を選ぶことで, $ x = a_1b_1 + \dots + a_nb_n $ とできる.
次に, Zorn の補題と同値な命題である Tukey の補題に登場する有限性といふ概念について述べる.
Definition 1. 有限性
$ X, \mathfrak C $ を集合とし, $ \mathfrak C $ の全ての元は $ X $ の部分集合であるとする. $ \mathfrak C $ が有限性を持つとは,任意の $ Y \subset X $ に対して, $ Y \in \mathfrak C $ であるならば,かつそのときに限り任意の $ Y $ の有限部分集合 $ Z $ が $ Z \in \mathfrak C $ であることである.
選択公理および Zorn の補題とは以下のやうなものである.これら2つの命題は同値であるが,前述の通り証明は省略する.
Axiom 2-1. 選択公理
$ U, \Lambda $ を集合とし,各 $ \lambda \in \Lambda $ に対して集合 $ A_\lambda \subset U $ が定まつてゐるとする.どの $ A_\lambda $ も空でないなら,ある写像 $ s: \Lambda \to U $ が存在し, $ s(\lambda) \in A_\lambda $ となる.
Axiom 2-2. Zorn の補題
$ P $ を空でない半順序集合とし,部分集合 $ A \subset P $ が全順序集合なら $ A $ は $ P $ 中に上界を持つとする.このとき, $ P $ は極大元を持つ.
Tukey の補題とは以下のやうなものである.
Axiom 2-3. Tukey の補題
選択公理を仮定する. $ X, \mathfrak C $ を空でない集合とし, $ \mathfrak C $ の全ての元は $ X $ の部分集合であるとする. $ \mathfrak C $ が有限性を持つならば, $ \mathfrak C $ は(包含関係の意味で)極大元を持つ.
Zorn の補題から Tukey の補題が導けることを示しておく.
proof. (Zorn $ \Longrightarrow $ Tukey) $ \mathfrak C $ を有限性を持つ集合とする. $ \mathfrak B \subset \mathfrak C $ が包含関係の意味で全順序部分集合とする.ここで $ \bigcup \mathfrak B \in \mathfrak C $ であることを示す.有限性から,任意の有限な部分集合 $ A \subset \bigcup \mathfrak B $ が $ A \in \mathfrak C $ であることを示せば良い. $ \mathfrak B $ が全順序集合であることから,うまく $ A' \in \mathfrak B $ を取ることで $ A \subset A' $ とできる.いま $ A' \in \mathfrak C $ なので有限性から $ A \in \mathfrak C $ である.
ところで, $ \bigcup \mathfrak B $ は明らかに $ \mathfrak B $ の上界である.よつて Zorn の補題の仮定が満たされたので, $ \mathfrak C $ は極大元を持つ.∎
では,基底の存在定理を示さう.
Theorem 3. 基底の存在定理
Tukeyの補題を仮定する.空でない任意の線型空間に対して基底が存在する.
proof. $ V $ を空でない線型空間とする.集合 $ \mathfrak B $ を, $ V $ の部分集合であつて線型独立なもの全体として定義する.すると, $ \mathfrak B $ は有限性を持つ空でない集合とする.これは次のやうにして示される:勝手に $ W \subset V $ を取る. $ W \in \mathfrak B $ であるならば $ W $ は線型独立だから,どのやうに $ W $ の有限な部分集合を選んでも線型独立なので,それは $ \mathfrak B $ の元である.逆に $ W \notin \mathfrak B $ であるとすると,ある $ W $ の有限部分集合は線型独立ではないから,それは $ \mathfrak B $ の元とはならない.
よつて Tukey の補題より $ \mathfrak B $ は極大元 $ B $ を持つ. $ \mathfrak B $ の定義より, $ B $ は Definition 0 の基底の定義の1つ目の条件は満たしてゐる.よつて2つ目の条件を満たすことを示せば良い.もし2つ目の条件が成り立つてゐないとすると,ある $ x \in V $ があつて, $ x $ は $ B $ の有限個の元の線型結合として表されない.ところで,集合 $ B \cup \left \lbrace x \right \rbrace $ を考へてみると,これは $ \mathfrak B $ の元となる.勿論, $ B \cup \left \lbrace x \right \rbrace $ は $ B $ より真に大きいから,これは $ B $ が極大元であることに反する.
以上より, $ B $ は $ V $ の基底の1つである.∎
これで任意の線型空間に基底が存在することは示せた.しかし,これは任意の線型空間に次元が定義できたといふことは意味してゐない.何故なら,基底は一般に複数存在するため,そのどれもが同じ濃度であることを示さなくてはならないからである.
Theorem 4. 次元定理
$ V $ を体 $ F $ 上の線型空間とする. $ V $ のどの2つの基底も濃度が一致する.
proof. 勝手に $ V $ の基底 $ B $ をとる.集合 $ X \subset V $ が線型独立ならば $ |X| \leq |B| $ を示せば証明は完了する.ここで $ |B| $ が有限ならば $ V $ は有限次元だから,証明は通常の線型代数学の入門の教科書に譲り,ここでは $ |B| $ は有限ではないとする.また, $ |X| $ が有限ならば明らかに $ |X| \leq |B| $ なので, $ |X| $ も有限ではないとする.
いま, $ |B| < |X| $ であると仮定する.Theorem 3 の証明時と同様に,集合 $ \mathfrak B $ を $ V $ の部分集合であつて線型独立なもの全体として定義する.ここで集合 $ \mathfrak X \subset \mathfrak B $ を
$$ \mathfrak X = \left \lbrace Y \in \mathfrak B \mid X \subset Y \right \rbrace $$
として定義する.任意の全順序集合 $ \mathfrak Y \subset \mathfrak X $ に対して $ \bigcup \mathfrak Y $ はその上界であり, $ \bigcup \mathfrak Y \in \mathfrak X $ であるから,これは Zorn の補題の条件を満たす.従つて $ \mathfrak X $ は極大元 $ B' $ を持つ.これは $ X $ を含む基底の1つである(Theorem 3 の後半部分と同様に示せる). $ X \subset B' $ なので $ |X| \leq |B'| $ だから,仮定により $ |B| < |B'| $ である.
さて, $ B' $ が基底であることから,任意の $ b \in B $ に対してある $ b_{b,1}, \dots, b_{b,n} \in B' $ と $ a_1, \dots, a_n \in F $ が存在して
$$ b = \sum_{i=1}^n a_ib'_{b,i} $$
と書ける.ここで,集合 $ A_b $ を $ A_b = \left \lbrace b_{b,1}, \dots, b_{b,n} \right \rbrace $ として定義すると, $ |\bigcup_{b \in B} A_b| \leq |B| $ である.何故なら,
$$ \left | \bigcup_{b \in B} A_b \right | \leq \sum_{b\in B} |A_b| \leq |B| \max_{b \in B} |A_b| $$
であるが,どの $ b \in B $ に対しても $ |A_b| $ は有限なので $ |B| \max_{b \in B} |A_b| = |B| $ だからである(濃度の演算について詳しくは松坂和夫『集合・位相入門』などを参照したい).これより, $ |\bigcup_{b \in B} A_b| < |B'| $ である.いま $ \bigcup_{b \in B} A_b \subset B' $ であるので, $ \bigcup_{b \in B} A_b \subsetneq B' $ である.従つて,ある $ b' \in B' $ が存在して, $ b' \notin \bigcup_{b \in B} A_b $ となる.
ところで, $ B $ も基底であることから,ある $ b_1, \dots, b_n \in B $ と $ a_1, \dots, a_n \in F $ が存在して
$$ b' = \sum_{i=1}^n a_ib_i $$
となるはずであるが,各 $ b_i $ は $ \bigcup_{b \in B} A_b $ の元の有限線型結合として表される.つまりこれは $ b' $ が $ B \setminus \left \lbrace b' \right \rbrace $ の有限線型結合として書けるといふことであり,矛盾である.∎
これで,次元を定義する準備が整つた.
Definition 5. 次元
$ V $ を線型空間とする. $ V $ が空であるなら, $ V $ の次元は0であるとし,さもなくばその基底を1つとり,その濃度を $ V $ の次元と定義する(この定義はTheorem 3 および4から well-defined である).