Coinhive 事件の判決を読んだ際に発生しうる典型的な誤解に対して
先日,最高裁判所において, Coinhive 事件に対する判決が下された. 判決の内容は既報のとほり被告人無罪であつた.
さて,この判決に対して次のやうな感想がトゥヰートゥされた.
コインハイブ・判決文の終章,わりと強い文面でびっくりしたhttps://t.co/qs8BOS5N2L pic.twitter.com/b8DlL922IR
— Hirotaka Niisato (@hirotakaster) January 20, 2022
普段から判決文を読み慣れてゐる者にとつては,いつもと変はらぬ表現であるが,一方で,判決文に触れることが少ない者にとつては,係るトゥヰートゥにあるとほり,「強い表現」であると感じられるやうである. 特に本件は普段裁判所とは程遠いソフトゥヱア・エンヂニアの注目を集めたものであつたため,この表現を曲解する者も少なからずゐたやうである.
【定期】神奈川県警と横浜地検,著しく正義に反していた https://t.co/9iSkWQVGkn
— うんこ (@LOGOTYPE___NO1) January 21, 2022
これはつまり
— つねた (@app_tune) January 21, 2022
「神奈川県警と横浜地検は,著しく正義に反する行いをした」
ってことなんですが,当事者である機関の方々はわかってるんですかね? https://t.co/ouZMsbKov1
本記事は,これらの勘違ひや,そこまで行かなくとも若干の誤解を解くために書かれた次第である.
上告とは
係る判決文を読む前に,刑事訴訟における上告について簡単に説明する.
刑事訴訟において上告とは,第二審または一部の第一審の判決(原判決)に対して不服がある際に,最高裁判所に対して行ふことのできる申立の一種である(刑事訴訟法 405 条,以下法令名を明示しない場合はすべて刑事訴訟法における条数). ここで不服がある際にはいつでも上告ができるわけではなく,以下に示す事由の 1 つ以上を原判決が満たすときに限つて申し立てることができる.
- 憲法の違反があること又は憲法の解釈に誤があること
- 最高裁判所の判例と相反する判断をしたこと
- 最高裁判所の判例がない場合に,大審院若しくは上告裁判所たる高等裁判所の判例又はこの法律施行後の控訴裁判所たる高等裁判所の判例と相反する判断をしたこと
つまり,原判決に憲法上の争点がある場合または最高裁の以前下した判断と食ひ違ふ部分がある際に限つて申し立てることができる.
最高裁判所は,原判決にこれらの事由が認められる場合にのみ原判決を破棄することができ( 410 条),またこれらの事由が認められない場合には上告を棄却する.
また,最高裁における審理について,裁判所法 10 条は次のやうに定める.
事件を大法廷又は小法廷のいずれで取り扱うかについては、最高裁判所の定めるところによる。但し、左の場合においては、小法廷では裁判をすることができない。
- 当事者の主張に基いて、法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを判断するとき。(意見が前に大法廷でした、その法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するとの裁判と同じであるときを除く。)
- 前号の場合を除いて、法律、命令、規則又は処分が憲法に適合しないと認めるとき。
- 憲法その他の法令の解釈適用について、意見が前に最高裁判所のした裁判に反するとき。
したがつて,原判決に 405 条 1,2 号で掲げる事由が認められうるとされた場合には,大法廷でこれを審理し,さうでない場合には小法廷で審理を行ふ.
一方,上記で記した事由が原判決に認められなくとも,以下に示す事由があつて原判決を破棄しなければ著しく正義に反すると認めるときには原判決を破棄することができる( 411 条).
- 判決に影響を及ぼすべき法令の違反があること
- 刑の量定が甚しく不当であること
- 判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認があること
- 再審の請求をすることができる場合にあたる事由があること
- 判決があつた後に刑の廃止若しくは変更又は大赦があつたこと
ここで再審の請求をすることができる場合については 435 条に記されてゐる.
上告の申立を行ふ者(上告人)は,上告趣意書と呼ばれる上告の理由を明示した文書を提出する必要がある( 407 条). ここには上告の申立を正当たらしめる理由,すなはち 405 条が掲げる事由が原判決に認められることを主張することが原則である. その上で, 411 条が掲げる事由が原判決に認められる際には,併せてこれを書くことが望ましいとされる1.
判決文について
さて,これで係る最高裁判決を読む準備ができた. 係る判決は以下よりダウンラウドゥできる.
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/869/090869_hanrei.pdf
主文
原判決を破棄する。 本件控訴を棄却する。
まづ本事件の経過を述べる. 第一審判決では被告人を無罪とした. これに対して検察側が控訴し,第二審判決(原判決)では第一審判決を破棄,被告人有罪2と更に判決した. この原判決に対して弁護側が上告した.
主文では,この原判決を破棄して,なほかつそもそも控訴を棄却すべきだつたものと判断し,最高裁が代はりに控訴棄却した,と記されてゐる.
理由
弁護人平野敬の上告趣意のうち,(中略)前提を欠き,その余は,(中略)刑訴法405条の上告理由に当たらない。
この段落は,最高裁小法廷判決(あるいは決定)の定型句である. まづ,前節で述べたとほり,上告趣意書には 405 条が掲げる事由が原判決に認められることに加へて, 411 条が掲げる事由も認められることを主張することが一般である. これに対して, 405 条が掲げる問題はなく,更に 411 条が掲げる問題は上告申立の理由にならないと指摘する. 前節で述べたとほり,小法廷で審理された事件は, 405 条 1, 2 号の事由がない場合であるから,小法廷が行ふ上告を認めるほぼ全ての判決でこれと同等の段落が存在する.
しかしながら,所論に鑑み,職権をもって調査すると,原判決は,刑訴法411条1号,3号により破棄を免れない。
原判決には 411 条 1 号, 3 号に該当する事由が認められ,したがつて最高裁は原判決を破棄することが示されてゐる. この文も 411 条を以て原判決破棄を行ふ際には必ず記される.
(中略)原判決は,不正指令電磁的記録の解釈を誤り,その該当性を判断する際に考慮すべき事情を適切に考慮しなかったため,重大な事実誤認をしたものというべきであり,これらが判決に影響を及ぼすことは明らかであって,原判決を破棄しなければ著しく正義に反すると認められる。
問題の段落である. はじめにこの文の解釈を示す.
まづ,
不正指令電磁的記録の解釈を誤り,
とは,原判決に 411 条 1 号の事由があることを指摘し,次に,
その該当性を判断する際に考慮すべき事情を適切に考慮しなかったため,重大な事実誤認をしたものというべきであり
とは,原判決に 411 条 3 号の事由があることを指摘する. さらに原判決に認められる 2 つの問題が,
判決に影響を及ぼすことは明らかであって,原判決を破棄しなければ著しく正義に反すると認められる
ので, 411 条に基づき原判決の破棄が可能になつたことが導かれる.
以上が一般的な解釈であるが,しかし「強い文面」であるとされる箇所をよく確かめると,これは刑事訴訟法 411 条から写した部分であることがわかる.
すなはち,本判決は,「仮に原判決を棄却しなかつた際には,その判断は著しく正義に反する」と述べたに過ぎず,またこれは最高裁が 411 条によつて上告を認める際の定型句である. したがつて,本件において最高裁の裁判官が本件に対して強い感情を抱き,あるいは何か特別に警察・検察機関を糾弾したといふことはない.
余談
ちなみに,最高裁の判決文は最高裁裁判官ではなく,その下に仕へる最高裁調査官が草案を書くとされる. したがつて判決の本文といふべき箇所は毎回似通ふものであり,また内容も穏当であると思はれる.
一方で,最高裁の出す判決文・決定文はその裁判に関はつた最高裁裁判官が意見を書くことができる(裁判所法 11 条).裁判官それぞれの意見は,本文と比べると裁判官自身の寄与が大きいとされるから,そちらのはうがより「強い」表現となることが多いかもしれない.